稚児の松


(小曽原区)

南北朝時代、厨城山の城主、新波(しば)高経(たかつね)が戦に敗れ、城が落ちる際、乳母に幼君を託して城から逃がしました。しかし、小曽原まで来た時、敵が迫って来たので、もはやこれまでと幼君共々自害してしまいました。これを哀れに思った村人は、2人の墓を作り、松と桜を植えました。それが稚児の松と稚児桜です。その後、ある村人が立派に育った松を持ち帰って庭に植えましたが、毎晩武士の亡霊が出て、「松を返せ~松を返せ~」と言うので、怖くなって元の場所に戻したということです。同じ敷地内にある稲荷神社は、この辺りに木々が茂り、狐や狸が出て来て村人に悪さをしたので建てられたということです。


足元が悪い場所もあります。
現地に行かれる際は、十分にご注意ください。